村の中学校からの帰り道、農道の途中にある弁天神社の前で兄の利一《りいち》が言った。低音だが力の込もった声だった。隣を歩いていた溝口祐二《みぞぐちゆうじ》は無言で利一を見た。ロイド眼鏡を掛けた面長の顔は強張《こわば》り、レンズ越しに見える目には刺すような光が浮かんでいた。その光を見て祐二は利一の言葉が嘘ではないことを知った。十五歳の年子の兄は本気で十一歳の末弟の殺害を決意していた。しかし祐二は驚かなかった。雷太の横暴な態度に祐二の忍耐も限界まできていたからだった。それは反抗期と言う言葉で片付くような生易しいものではなかった。
あれほど大人しかった雷太が変わり始めたのは一ヶ月ほど前、夏休みが終り二学期が始まった直後だった。
まず名前を呼んでも返事をしなくなった。ふざけているのかと思い頭をつつくと鋭い目つきで睨《にら》み返してきた。次に祐二と利一を平気で呼び捨てにするようになった。二人とも内向的で物静かな性格だったが、さすがに小学五年生に呼び捨てにされると腹が立った。しかも雷太は父親が再婚した女の連れ子であり義弟だった。さっそく利一が強い口調で注意すると「だったら俺を黙らせてみろ」と逆に挑発された。
雷太は顔だけ見れば普通の子供だった。坊主頭で頬が赤くいつも青洟《あおばな》を垂らしていたが、首から下が異常なまでに発育していた。身長が百九十五センチ、体重が百五キロもあった。腕も脚も丸太のように太く、左右の胸の筋肉は周囲を威圧するように高く盛り上がっていた。それは小柄で細身の祐二と利一の体躯《たいく》を遥《はる》かに凌駕《りようが》していた。雷太に挑発されて利一は言葉に詰まった。喧嘩《けんか》になれば叩《たた》きのめされるのは目に見えていた。小学生に負けるという屈辱だけは避けたかったのか、利一はそれ以上何も言わずに引き下がった。
その行為が雷太をさらに調子づかせた。翌日から雷太は祐二と利一を顎《あご》で使うようになった。自分には手出しができないと分かった途端、中学生の義兄達を使い走りにしたのだ。宿題や買い物、部屋の掃除など様々な雑用を言いつけ、少しでも気に入らぬことがあると大声で喚き散らした。二人は耐え難い屈辱に苛《さいな》まれ爆発寸前だったが、雷太の圧倒的な肉体の前には服従せざるをえなかった。
そんなある日事件が起きた。
祐二と利一に対しての横暴を知った父親が雷太を呼びつけ厳しく叱責《しつせき》したのだ。しかし雷太は全く動じなかった。にやりと薄笑いを浮かべこれ見よがしに畳に唾《つば》を吐いた。激怒した父親が平手で頬を打つと雷太は逆上した。父親を突き飛ばして馬乗りになり、その顔面をめちゃくちゃに殴りつけた。祐二と利一は雷太の腕にしがみついて暴行をやめさせたが、父親は鼻骨を骨折して全治一ヶ月の怪我を負った。
この出来事は祐二と利一を慄然《りつぜん》とさせた。二人に対する仕打ちはいくら酷《ひど》いとは言え所詮《しよせん》子供同士のものだった。しかしそれが大人に対しても行使されたことにより、事態はしゃれにならない深刻なものになった。父親を殴っている時も雷太は薄笑いを浮かべたままだった。人間の顔面を潰《つぶ》す快楽に浸《ひた》っているように見えた。その時雷太は明らかに己の肉体の持つ絶大な力に感づき、同時に暴力で他人の肉体を破壊する悦《よろこ》びに目覚めていた。それはまさに狂人が銃の操作を覚えたようなものだった。十一歳の子供が湧き上がる破壊の衝動を制御できるはずもなく、さらに唯一の抑止力となるはずだった父親が駆逐されたため、歯止めのきかなくなった雷太の暴力が今後さらに激化することは必至だった。祐二と利一はまだ暴行されたことは無かったが、それももはや時間の問題のように思えた。親を叩きのめして調子付いている雷太は、切っ掛けさえあればすぐに襲い掛かってくるはずだった。しかも二人の体躯は父親よりも貧弱だった。雷太の殴打で血まみれになった自分達の姿を想像すると、憤怒《ふんぬ》と恐怖で体が震えた。だから利一が雷太の殺害を主張した時も、祐二は身を守るためには至極当然のことだと思った。
「雷太を殺そう」
利一はもう一度言った。初めと同様に低音だが力の込もった声だった。
「あの化け物をどうやって殺す?」
祐二が歩きながら訊《き》いた。
「河童《かつぱ》だ。蛇腹《じやばら》沼の河童どもにやらせる」
「でも何と言って頼む? あいつら人間とはつるまねぇぞ」
「頼み方はベカやんに教えてもらう。ベカやんだったらいい方法を知ってるはずだ」
「じゃあこれから山に行くのか?」
「そうだ」
利一は前を向いたまま頷《うなず》いた。祐二の頭に小太りで人の好《よ》さそうな中年男の顔が浮かんだ。
「祐二、いま金持ってるか?」
「小銭なら少しある」
祐二が学生服のポケットに手を入れた。
「悪《わり》ぃが途中の煙草屋でゴールデンバットを三箱買ってくれ」
「土産か?」
「ベカやんは煙草が好きだから機嫌が良くなる」
利一が横目で祐二を見た。
*
ベカやんは村の東方にあるマルタ山に住んでいた。山の中腹に陸軍の古い防空陣地跡が残っており、その敷地内にある防空壕《ぼうくうごう》の中で寝起きしていた。
ベカやんは流れ者だった。祐二が物心ついた頃にはすでにこの村に住んでいたが、その素性は謎だった。本名も年齢も出生地も、いつどこからやってきたのかも知る者はいなかった。ただ五二式《ごうにいしき》の自動小銃を持っていて射撃に長《た》けているため、どこぞの部隊からの脱走兵ではないかというのが専らの噂だった。
しかし彼のことを憲兵隊に通報する村人は一人もいなかった。それはひとえにベカやんの明るく実直な性格のお陰だった。いつもニコニコと笑顔を絶やさず、人と会うと必ず自分から挨拶《あいさつ》した。子供や年寄りには殊の外親切で、山で獲《と》った鳥や獣の肉を気前良く分け与えた。田植えと稲刈りの時は無償で手伝い、村祭りには必ず自家製のどぶろくを神社に奉納した。誰とでも分け隔てなく平等に付き合ったが、村の女には決して手を出さなかった。
そんな己の立場をわきまえた真摯《しんし》な態度が功を奏し、いつしかベカやんは村民の一人として認められていった。
またベカやんは村内で唯一蛇腹沼に棲《す》む河童達と交流があった。村人は彼らの醜い容姿を忌み嫌い露骨に差別していたが、ベカやんは全く気にすることなく積極的に接触していた。初めは警戒して近づかなかった河童達だったが、その明るい性格と巧みな話術に少しずつ心を開いていき、今では猪の肉と沼の銀ブナを定期的に交換するまでになっていた。
*
祐二と利一がマルタ山の防空陣地跡に着いたのは夕方の四時過ぎだった。
山の南側の中腹に百坪ほどの平地があった。
白い花穂をつけたススキが一面に茂るその中央に、錆《さ》びついた二門の八センチ高射砲が放置されていた。二十メートルほど離れた砲と砲の間には、直径が二メートルある四式照空燈《とう》が下向きになって倒れていた。後方には山の急斜面が迫っていて、そこに横穴式の防空壕が掘られていた。
二人はコンクリートで固められた壕の入り口の前に立った。幅も高さも